1593年のクリスマスの深夜ミサ。
赤ちゃんルイスを抱いたカタリナを思いやって、ルイスがシストとカタリナを、セミナリヨの聖堂の玄関、つまり、屋根の下に連れてきてくれた。
今晩もまた、大勢の高麗人たちが洗礼を授けられる。
長い長いミサ。
セミナリヨの10代の子たちの歌声が響く。
開け放たれている聖堂の扉からローソクがゆれる祭壇が見える。
外は、冬の夜。
そして、光る星。
玄関のひさしの下で若い夫婦が小さい乳飲み子を抱いているのだ。
何というクリスマス。
馬小屋に呼ばれた貧しい羊飼いたちは、今晩は、高麗人捕虜たちだ。
カタリナがささやく。
カタリナ
「シスト。
私、去年のクリスマスとぜんぜん感じが違うの。
マリア様が、どんな気持ちだったかとってもよく分かるわ。」
シスト
「そうか。
ぼくも、ヨゼフ様がどんな気持ちだったかとってもよく分かる。」
二人は赤ちゃんルイスを見つめる。
カタリナ
「パードレが、いつまでも謙遜でちっちゃいままでいなさいねって言ったのおぼえている。
シスト。」
シスト
「謙遜で、ちっちゃいままでいることを、教えてくれるために、イエズスは赤ちゃんになってくれたんだね。」
カタリナ
「こんなに、わたしに、頼りきってこの子が生きているみたいに、私も神様に頼りきっていつも生きていきたい。」
シスト
「そして、何があっても頼りきって、安らかにまかせきっていたいね。
ぼくも。」
涙のクリスマスだった最初のクリスマス、二人は苦しめとはずかしめを、花婿と同じ運命に預かることを喜ぶ花嫁の愛で受け入れ、愛し望み、喜ぶことが魂の戦いの勝利であることを神の照らしによってつかんだ。
二回目のクリスマスは、苦しめとはずかしめによって謙遜でちっちゃいものとして生きぬく基礎を与えられた。
連行以来の日々を、神は「幼子路線」として完成させる恵みの日として下さった。シストとカタリナは、この日、強烈な確信をだき、ちっちゃい子らしく、かわいらしく、生き、話し、行動することを今後、生涯はずかしがることなく続ける。
実はこれから、有馬を去れば、シストは先生、カタリナは先生の奥さんと呼ばれる日々が待っているのだ。
二人は、それを知らない。
しかし、神はその環境の中でも二人が、ごう慢にならず、逆にますます自らすすんで謙遜になるように、すばらしい配慮をもって二人を導いてくださっているのだ。
2008年5月12日 UP
著者 ジャン・マリー神父・ソーンブッシュ・リトルヨハネ
(C) 箱舟の聖母社